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少年は真新しい墓標に花を添えた。
 否、少年というほど幼くは無い。だが青年と呼ぶにはまだ若い、そんな年頃の若者だ。長身に纏う衣服は簡素な作りのものだが、それを形作る上質な布地が彼の身分の高さを物語る。
 早春の昼下がり、暖かくやわらかな陽気。辺りを吹き抜けるのは、かすかな潮の香を乗せた、まだ冬の冷たさの残る風。雪解けの大地から目覚めたばかりの若草、芽吹き始めた木々の若葉、そして墓前に手向けられたばかりの花束と若者の黒髪を揺らす。
「大地の母ルビスの祝福を。古の勇者ロトとアレフの導きを。迷えるその魂、望みし大地へと辿り着くよう――」
 謡うように響く、神父の祈りの言葉。
 そっと瞼を伏せて若者は黙祷を捧げる。墓石の下に眠る名も知らぬ兵士が、せめて安息の地へと辿り着けるように。
 眼を伏せて視界を閉ざす。頬を撫でる風の冷気と鼻を突く若葉のつんとした爽やかな匂い、木々の葉がざわざわと風にざわめく音がいっそう強く感じられた。
「王子。陛下がお呼びです」
 背後から、精悍な低い声が聞こえる。
 無言で黙祷を続ける若者と、鎮魂の祈りを唱える神父。その呼びかけに応える者はいない。
 ただ静寂の中に、厳かな神父の声が響いていた。

「天に還りし我が友に、光と安らぎを――」
 やがて神父の言葉が途切れ、若者もまた黙祷を終えて眼を開ける。
 神父に一礼を送った後、徐に背後を顧みると、その視線の先に直立不動の全身に鎧を着込んだ眼光鋭い壮年の男性――先ほどの声の主が立っていた。
「ああ。今行く」
 あたかも呼びかけの直後に応えたような顔をして、王子と呼ばれた若者は短くそう告げた。声をかけられてから彼が返答するまでに挟んだ沈黙は、決して短くはなかったはずだが。
 あからさまに無視されていたにもかかわらず、壮年の戦士の口からは文句のひとつも出てこない。
「……人が黙祷している時に呼ぶのが悪いんだろ」
 若者は、責められてもいないのに自ら言い訳を口にする。
「私は何も申し上げておりません」
 厳格な物腰を崩さぬままに、戦士は答えた。
 知ってるよ、と一言呟き、若者はそのまま戦士の横を通り過ぎ、真っ直ぐに歩き出す。
 そう、彼が黙っていた理由など、確かめるまでもなく知っていた。身を賭して危機を報せに来た勇士の安息を願う祈りを妨げるような無粋な人間は、この城に一人もいない――と、思いたい。
 若者は、目前に聳え立つ頑健なる白亜の王城を見上げる。
 彼が第一王位継承者として生まれ育ったこの城は、兄弟国である二国……世界一の美と誉れ高きムーンブルク宮殿と比べると優美さに欠けるし、森深きサマルトリア神殿の神秘や壮麗も持ち合わせていない、飾り気に乏しい建造物だ。それらしいものはと言えば国旗と窓枠くらいか。
 だが、その無骨さを若者は気に入っていた。長年に亘って雨風に曝されながらも微動だにせず、城下に住む民を護ってきた飾り気の無い石造りの城壁は、己の身ひとつと剣一本で生を貫く戦人の佇まいだと彼は思う。
 傍らの広大な海、見渡す限りの草原。空気を渡る風、ローレシアの大地。常に傍らに在る故郷。
 堅固な城門を潜る一歩を踏み出す前に、彼は今一度だけ振り返る。共同墓地の片隅に佇む十字の墓が、空と同じ色の双眸に映る。
 辺りを照らす陽射しの明るさや芽吹きはじめた若葉の瑞々しさと、人気の無い墓地の静謐の対比が無性に寂しかった。
 ……祖国に帰してやれなくて、ごめんな。
 心の中で、そっと声をかける。
 先日の報せを、まだ心のどこかで信じられずにいる。しかし遥か南西の空に立ち上る、いくつもの黒煙を目の当たりにして、それを否定するわけにはいかなかった。

 かの大地アレフガルドには、古より伝わる勇者たちの物語がある。
 いつの時代に生を受け、どんな人生を歩んだのか――もはやその詳細は語られていない、その名を残すのみの最古の勇者ロト。
 かつてこの世から朝と昼が失われた時代、何処からか現れ、光の玉を用いて闇を払い、また風のように去っていった、もう一人の勇者ロト。
 二人目のロトの子孫、孤独な旅路の果てに竜王を破り、最古の王朝ラダトームの王女ローラと共に旅立ち、三大国家を築き上げた勇者アレフ。
 最後の勇者自らの手によって生まれた国々は、建国以来目立った争いもなく、緩やかに、しかし確実に発展していった。
 魔導と英知を誇るムーンブルク。
 信仰深き護り手サマルトリア。
 そして、武勇名高きローレシア。
 百年目を迎えた栄華、勇者の国といっても、これといった特別な何かがあるわけではない。ありふれた日常も、人の営みも、ぬるま湯のような漠然とした平和も、世界中の至る所に点在する村や町と全く同じもの。そしてその平穏は今も、明日も、その次の日も――確信するほどでは無いけれど、空気のように見えなくとも確かなものとして万人の心の片隅に根付いていた。
 つい先日まで。

 ムーンブルク落城。
 その凶報は突然にやってきた。
 否、突然といっては楽観が過ぎるというものだ。
 鋭利な刃物で切り裂かれたような傷と自らの血とで、襤褸のようになった全身を引きずるようにして、ある一人の旅の商人が城下町の門を潜ったのは、いつの日のことだっただろうか。
 活気付く町並みに悲鳴が響き渡り、道行く人々が衝撃に立ち尽くす中、得体の知れないバケモノにやられたと、一言だけ残して彼は息を引き取った。
 この世界に住まう人間にとって、人に危害を加える、バケモノという単語が表す存在は一つしかない。
 魔物――そう呼ばれる、人の血肉を喰らう存在がある。
 百年余の昔、武力を以って世界を自らの手に収めようとした悪魔の化身、竜王。その配下として、好戦的な性質と優れた戦闘能力で多くの旅人や戦士を手にかけてきた闇の眷属だ。
 ある者は獣、またある者は植物。あるいは人に近い容貌、または左記の中のどれにも当てはまらぬ異形の姿を持ち、その本質は生命であるのか生命を持たないのかさえ、わからない。
 竜王が勇者アレフによって討ち取られた後は嘘のように凶暴性を失くし、高山の洞穴や奥深き密林、底知れぬ深海など、人の手と陽の光の届かぬ領域へと姿を消し、今や口伝に在りし日の姿を残すのみと思われていたのだが、その日を皮切りに、異形の者の手によって死傷する人々の数は増加の一途を辿っていくことになる。
 闇を好む魔物と日の当たる場所に住まう人間の、相互不干渉、繋がりを絶つことによる共存。お互いの生態の不一致が可能にしていたはずの均衡。魔物と人間の領域を別つていた境界は破られた。
 荷物を背負って町から町へと行脚する商人や、歌や曲を作るために草花と戯れる吟遊詩人、浪漫を求めてさすらう旅人達が行き交っていた街道は、鋭い爪と牙が人の身を引き裂くか、金属の刃が魔物の皮膚を貫くかの死闘の場となり、集落の外の世界は今や人々にとって安全な場所ではなくなったのである。
 そして数日前、陽の落ちぬ内から、突如鮮やかな紅に燃え上がった遥か南西の空。
 その異様な光景は噂に上るまでもなく民草の関心を集め、広がる噂の後を追うようにして、緩やかに確実に不安と動揺が染みわたっていった。
 天空を覆った正体不明の朱の正体は、調査隊を編成するよりも早く、ローレシア王城を訪れた一人の使者によって明かされることになる。
 一昨日の昼前、若者がいつものように城の兵士たちに混ざって、剣術の訓練に精を出していたところに、彼の者は現れた。
 満身創痍。その姿を一言で説明するのに、これほど相応しい言葉は他に無かった。
 裂傷や打撲痕で変形し、兵士自身のものと迎え撃った魔物のものである夥しい量の血液が、赤黒い汚れとなって付着した甲冑は、ローレシアのものとは異なる形状と、しかと刻まれたムーンブルクの紋章を辛うじて確認できた。
 治療の申し出も肩を貸すことさえ拒み、片足を引きずり、泥混じりの血痕を点々と廊下に残しながら、一路王座の間へと向かう鬼気迫る後ろ姿を、城内の者たちは誰一人として止めることも近寄ることさえ出来ずに立ち尽くした。兵士の強固な意志が障壁となって周囲に迸っているかのようだった。
 大神官ハーゴン率いる邪教の徒とその僕たる魔物の大軍に因って、ムーンブルクの王宮と城下町は全滅、多くの民そして国王夫妻の戦死。破壊神の復活による世界の危機を告げて、兵士は言葉を失う。
 ――何とぞ御対策を。あのような思いは、我らだけで……
 その足元では、豪奢な絨緞が兵士の命の灯火ごとその血を吸い取っているかのように赤く染まっていた。
 その目前には、悠然と玉座に腰掛けるローレシア国王の姿。
 王は深海と同じ色の双眸で傷だらけの兵士へ一瞥をくれると、徐に立ち上がり使者の眼前で絨緞に片膝を折った。王が跪く姿を初めて目の当たりにした、周りに控えていた兵や息子の狼狽をものともせずに。
 ――大義であった。その方の忠誠、我が朋友ムーンブルク王も誇っておろう。
 王の言葉を聞き届け、兵士は糸が切れた人形のように崩れ落ち、それきり動かなかった。
 あれだけの重傷、本来なら喋ることすらままならなかっただろうにと、その最期を知る者たちは後に語る。
 そして兵と息子もまた、王に倣いその亡骸に向かって膝をついたという。

 南西――ムーンブルクの上空は、禍々しく暗い滅亡の赤に澱んでいた。

 若者は、心ここにあらずといった面持ちで歩を進める。赤い煉瓦造りの廊下と頑丈な靴の踵がぶつかる硬質な足音が響く。
 城仕えの下男や下女によってあらかた清掃されたが、廊下に散らばった、赤い、赤い血の跡は、鮮明に彼の脳裏に焼きついている。
 彼には決意したことがあった。
 くすんだ白い石の壁や床に敷かれる、縁に金糸で飾り刺繍が施された深い藍色の絨緞。銀色の無骨な飾り格子が嵌められた窓枠、高い天井。窓の向こうから、若草の香を乗せた草原の風が吹き付けた。
 考え事に没頭して、周りの景色がろくに眼中に入っていなくとも、廊下を歩く両の足が鈍ったりはしない。生まれ育った城の全てを、全身が覚えている。
 一際重厚で豪奢な両開きの扉を開けた向こうは王座の間だ。
 藍色の絨緞の先に、空っぽの古い玉座がある。
 主不在の椅子から視線を横に走らせると、陽が差し込む大きな窓の傍らに、立派な王冠と外套を折り目正しく着込んだ大柄な男性が立っていた。
 若者は一つ息を吸い込んで、吐いて。もう一度息を吸い、大きな背中に声をかける。
「――親父殿」
 その声に、男性は鷹揚に振り向いた。
「来たか。息子よ」
 低く響く厳格な声音。
 鋭い眼光。視線で人を殺めることが出来るならば彼の前には屍が積み上がるだろう。煌びやかな装飾の施された豪華な衣装の下には鍛え抜かれた身体がある。腰のベルトに下げられた宝刀は飾り太刀ではない。紛れも無く彼の長年の愛刀であり、磨き上げられたその刀身が幾人もの不埒者を屠ってきたことは周知の事実だ。
 若者の実父ローレシア六世は、王であり歴戦を制した戦人でもあった。
 アレフによって築かれた三国の王は、ロトの盟約の名の下に、先頭に立って国を守るべく力と、国を維持する知恵とを、自らの努力によって身につけて初めて、勇者の子孫の名に恥じぬ君主として認められる。
 力とは、眼前に立ち塞がり、害を成すものを粉砕する文字通りの力でも、傷ついた者や力弱き者を癒し守る奇跡や守護の術でも良いし、知恵とは才能と努力によって身に付く英知や博学でも、または能力を持った人材を束ねる指導力でも構わない。
 ただ直向に、己に合った強さを。
 若者の父もまた、そうして王の座を勝ち取り、ローレシアの『象徴』とされていた。
 窓から差し込む陽射しが向かい合う親子に降り注ぎ、藍色の豪奢な絨緞に濃く短い影を作る。
「決意は変わらぬか」
「ああ」
 ぞんざいな返事をする息子に、王は無言で冷ややかな視線を投げつけた。 
「……はい。ハーゴン討伐の許可を下さい」
 若者は改めて返答し直し、ありのままに望みを口にする。
 魔物の餌食となった大切な人の仇を討つため、あるいは己の実力を試したい腕に覚えのある武人など、魔物討伐を志願する者は以前から見られたが、ムーンブルクの訃報を聞いて、その数は一気に増加した。特に後を絶たなかったのが、かの国に子供を嫁がせた親や、親を残して武術を学びに来た若者など、老若男女、実力の有無を問わず、ただ魔物に復讐したい一心で志願する痛々しい者たちだった。
 その度に、王宮の兵士達は彼らに、無駄に命を落としてはならないと言い聞かせたが、頑として聞かずに旅立ち、そして、多くはそのまま帰ってこなかった。
 それを愚かと嘲笑う者を非難することは出来ない。幾人もの先人の言うとおり、無謀な振る舞いを勇敢と称えるのは浅慮である。
 しかし、それでも――それがわかっていても動かずにはいられない人の業、人の思いを、彼は無下には出来なかった。
 だから、彼もまた旅立ちを決意した。かつての勇者のように、この悲しみを止めるために。
「国として援護は出せぬ。孤独な旅となるが、覚悟は出来ているか」
 父の言葉に、息子は深くしっかりと頷く。
 魔物が全世界のいたるところを徘徊するようになり、兵役は過酷なものとなった。貿易が滞ることを避けるために身を持って商人を護衛し、町に攻め入る魔物の警戒と迎撃に神経をすり減らす。それに伴い増強した新兵の育成。とてもではないが積極的に魔物を討伐するための戦力は裂けない。ムーンブルクの忌まわしき赤い空の調査が遅れたのも、そのためだった。
「アレフは一人で竜王を倒した。子孫の俺にも出来る」
 若者は父の眼光を真っ向から見据え、言い放つ。彼に、国を守るための兵士を道連れにしようなどと言う考えは毛頭無い。
「そうか、ならば受け取れ。餞別だ」
 もはや何も言うことは無い、と言外に含み王は息子に小さな皮袋を手渡す。
 口紐を緩めて中を確認すると、そこには十ゴールド貨幣が五枚。
「しょぼッ!」
 反射的に、正直な感想が若者の口をついて出た。
「馬鹿者」
 王は額にしわを寄せ、眉間を押さえる。
「これは、戦場に出向く兵士の日当だ。確かに、命懸けの任務に値する額ではないことは認めよう」
 若者は言葉を詰まらせて、手のひらの上の真新しい貨幣に目線を落とす。改めて見つめる小さな皮袋は、ひどく重たかった。
「多くの民が旅立った。その中で、お前だけを特別に扱うわけにはいかぬ」
 黙って五十ゴールドの重みを確かめる彼の胸の内に、父王の厳格な声が染みるように響く。
「ああ。これで充分だ」
 端的な答えに万感を込め、若者は皮袋を懐にしまう。その様子を厳しい眼差しで見届けながらも、王は満足そうに頷いた。
「アレム」
 声をかけられた若者――アレムは、違和を感じて父王に怪訝な視線を向ける。アレムと云う名は彼の愛称であり、それよりも少し長い本名が他にある。生まれてこの方、彼は父に愛称で呼ばれた記憶が無い。
 いや、無かった。この時まで。
「今この時より、お前の王族としての名と王位継承権は、このわしが預かる」
 感情の読み取れない、ただ厳格な声音が告げた内容は、ローレシア第一王位継承権の剥奪、事実上の勘当である。それに対する当の本人、アレムの態度は落ち着いたものだった。
 武術は積極的に学んでも、学業に関しては居眠りや脱走、逃避を繰り返した彼だったが、学そのものを蔑ろにし、重荷に感じているわけではない。心情や志、また祖先がいかなるものであれ、単身で国を離れ死地に赴くなど、政を行う立場にある者の振る舞いではないことは理解していた。
 今、自身が試されているのだと彼は考える。
 城での暮らしと比べて不都合と認識するか、民と同じ場所に立ち、血と汗を流し、その暮らしを知る機会と取るか。
 王子の身分、王族の権力、王国の後ろ盾、鬱陶しいそれらから解放されたと考えるか、時には頼り、守るべき責任や誇り、それらと向き直る時と感じるか。
 答えは考えるまでも無かった。
「ローレシア国王陛下。私にどうぞ御拝命を」
 アレムは頭を垂れ、厚い絨緞に片膝を付く。兵士たちの見様見真似という代物ではあるが、幾らかは形になっているのでは、など内心で愚にも付かぬことを考える。
 王は無言で、目の前で跪く息子の――一人の若者の姿を見つめる。彼と同じ、深い海の色を宿した双眸で。
「戦士アレム。そなたにハーゴン討伐及び、破壊神復活の阻止の任を与える。健闘を祈る」
「有り難き幸せ」
 アレムは慇懃に応え、立ち上がる。父と息子は。否、王と若者は再び向かい合う。
 窓から昼下がりの風が吹きつけ、王の豪華な衣装と若者の黒髪を揺らした。
「陛下。一つだけ、質問をお許しを」
 王は答えなかった。その沈黙を肯定と判断し、彼は続けて口を開く。
「王子殿下が戻らない時は、いかがするおつもりでしょうか」
 若者の問いかけに、王の表情は微動だにしない。
 その時は。
「ローレシアの王族の役目はそこまでだった。それだけの話だ」
 抑揚の無い物腰で告げられた返答に、ふ、とアレムの口元にもまた満足そうな笑みが浮かぶ。それでこそ、誇り高き国主であると。
 けれど。
「畏まりました。必ずや使命を全うしてご覧に入れましょう」
 滑らかな動作で慇懃に一礼する若者の声は、かすかに震えていた。
 全く不安が無いと言えば、嘘になる。
 たった今から、一人の若者となるアレム。今まで培ってきた王族の記憶や勇者の子孫としての魂はそのままに。自分の全てだとは思わないが、理屈で割り切って手放すには余りにも身近にありすぎるそれら。
 だが、父王の前でいきなり情けない顔をしてたまるかと、ごく単純な動機と意地と共に、アレムは憂いや翳りを力づくで全身から振り落とし、何者かに挑むように真っ直ぐ顔を上げた。
 その先で、王の一部の隙も無い威厳ある面差しが彼を見据えている。
「アレム。わしは一国の王だ、私情では動けぬ。だが」
 淡々と呼びかける声から感情を伺い知ることは出来ない。アレムの記憶の中でも、初めからそんなものは持ち合わせていないかのように、その平静が崩れた事は一度たりとも無かった。
 しかし最後の一瞬だけ、向かい合う深海と同じ色の視線が、僅かに揺れる。
「だが……一人の親として、いつでも」
 言葉は突然に途切れ、時が止まったような沈黙が通り過ぎた。
「何でも無い、忘れろ。もう……行くがよい」
 何事も無かったかのように、最後まで抑揚の無い物腰を変えなかった王の姿に、若者は再び笑みを零しかけた口元を引き締める。
 ローレシアの国王を意味する『象徴』には、二通りの意味がある。偉大なる国の主であると云う賞賛と、人の心を亡くした彫像のようだとの揶揄。 
 どちらにせよ、そんなに格好の良いものではない。要領が悪いだけだと、アレムは知っていた。
「僭越ながら、陛下」
 最後に、彼は口を開く。
「王子殿下は、きっと帰ってきます。陛下の御前に」
 改めて一礼した後に踵を廻らし、振り返らずに王座の間を去る。
 だから、王と若者――父と子の最後の表情は、お互いにわからない。二人を隔てる王座の間の厚く重い扉が閉じられてしまえば、尚の事。
 でも、それでいいと若者は思う。ローレシア王は万が一の事態を覚悟しているが、一人の父は最後まで息子の帰りを待つだろう。そして、ローレシアの王子が――自分が帰る場所は、この城、この国だけだ。その事実はこれからも揺るがないのだから。
 アレムは王座の間を出てすぐに自室に篭り、旅支度を始める。
 散らかった部屋を片付けるのに手間取っているうちに、陽は半ばまで地平線に埋没し、窓から差し込むそれが、必要最低限の家具しか置かれていない(にもかかわらず、整理に半日を費やしたのは謎である)閑散とした部屋の中を赤く照らす。
 青と黒を基調にした旅装束の上に革の鎧を身に着け、帽子で黒髪を覆い隠してゴーグルをつける。鏡が手元に無いので確認は出来ないが、今の自分を一見でローレシア王子だと見抜く者は、そうはいないだろう。
 鋼鉄の剣や鉄の槍、鉄製の防具が標準である兵士たちと比べ、いささか頼りない装備ではあるが彼は満足だった。伝承にあるロトの装備一式は、出自不明の彼がこのアレフガルドの地で手に入れたものだと云うし、アレフもまた粗末な装備から始め、己の力で旅を進めた果てに、失われたそれらを見つけ出したと云う。自分も彼らのように、やがて生涯を共にする武具を見つけることが出来るかもしれない。
 武器として、倉庫から見繕ってきた訓練用のひのきの棒を手に取り、軽く素振りする。釘でも打ち付ければそれなりの武器になるだろうか、などと物騒なことを考えていると、部屋の扉が鳴った。
「開いてる」
 扉に向かって声をかける。蝶番をかすかに軋ませながら開いたその向こうに立っていたのは、壮年の戦士と白い髭の老人。二人ともそれぞれ小脇に包みを抱えている。
「ハウゼン、フォーエル。どうした?」
 アレムの気楽な問いかけに、
「どうしたもこうしたも御座いませぬ」
 白髪を薄い髪油で整え、一糸乱れずきっちりと礼服を着込んだ老人フォーエルは、失礼しますと告げてから、矍鑠としながらも落ち着いた動作で部屋の中に足を踏み入れる。壮年の戦士――ハウゼンが数歩遅れてその後に続く。
「旅立たれると言うのは、本当なのですね」
 整然とした部屋の中と、冒険者然としたアレムの装束をまじまじと見つめ、独り言のように呟くと、老人はそっと懐から出したハンカチで目頭を拭う。
「じいは……じいは、つろうございますぞ」
「じい。泣くなよ」
 アレムは苦笑する。
 フォーエルは、現在の王であるアレムの父が生まれる前――彼にとって、想像しがたい時代であるが――先々代の頃からローレシア王家に仕える、はえぬきの家臣だ。
 温厚だが生真面目な性質で、しょっちゅう礼儀作法について長々と言い聞かされ、勉強の手を休めると小言を言われ、無断で遊びに出ては注意され……と、アレムの記憶の中のフォーエル老は叱責する顔ばかりだ。でも、時には城を抜け出す自分に気が付いても、見て見ぬ振りをしてくれた。
「心配するな。速攻で邪教を潰して帰ってくるよ」
 我ながら大きな口を叩きすぎたか、とアレムは照れ臭くなって少し笑った。
「王子……」
 二人と少し離れた場所に控えていたハウゼンが何かを言いかけた後、傍らのテーブルに置かれたひのきの棒と、釘の入った箱と金槌に目を留めて眉を顰める。
「…………あの箱は?」
「ああ、釘バットを」
「皆まで言わなくて結構です」
 アレムの言葉を遮るハウゼンの横をフォーエルが無言で通り過ぎ、黙々と鈍器と大工用具を片付ける。
「これをお持ち下さい」
 ハウゼンは一つ咳払いをし、改めて若者へ脇に抱えていた長細い包みを差し出す。
 両手で受け取ったその包みは、ずしりとした重みがあった。
「開けてもいいのか?」
 無言で首を縦に振るのを確認してから、アレムは濃い藍色の布包みを取る。
 その中から現れたのは、鞘に納まった一振りの銅の剣、多くの駆け出し冒険者たちが最初に手にする有名な武器だ。
「王子。こちらも城の皆からの餞別です。どうぞお受け取り下され」
 フォーエルの差し出した袋の中には、各種薬草や簡単な生活必需品、日持ちする食料などが入っているようだった。
 アレムは一度は伸ばした手をすぐに引っ込めてしまう。
「……気持ちは嬉しいけど、駄目だ。今の俺は」
「アレム殿にお渡しするのです。王子にではなく」
 今の俺は王子じゃない。
 言いかけた科白をハウゼンに先回りで遮られ、アレムは黙りこくるしかない。
「そ、っか。じゃあ、遠慮なく頂いておく。ありがとう」
 短い沈黙を置き、好意は受け取っておこうと素直に礼を言う。改めて手にした銅の剣は驚くほど手に馴染んだ。
「陛下によく似ておいでです。貴方は」
 厳格な表情を緩めるように、壮年の戦士は微かに微笑を零す。
「げ。俺はあんなに頑固じゃねーよ」
「その口の利き方は何ですか」
 すかさずフォーエル老に窘められ、アレムは目を逸らして頬を掻いた。
「二人とも、親父の――王のこと、頼む」
 愛想無しに見えるのは、表面だけだから。
 アレムの言葉に、二人の忠臣は互いに顔を見合わせる。
「そのような事、よく知っておりますとも。私めは陛下がご幼少の頃からお傍に仕えているのですぞ」
 少々おどけた仕草で胸を張って見せるフォーエルに、アレムは、そいつは失礼、と笑みを返す。
「王子。くれぐれも慢心にはお気をつけ下さい」
 うって変わってハウゼンの厳しい声が響き、表情を引き締めてそちらへと向き直るアレム。
「王子の武術の才は皆が認めるものです。しかし真剣を扱わなくとも、この城に本気で王子に危害を加えたい者はおりませんし、王子とて我らに刃を向けるのは躊躇われたはず」
 アレムは戦いが好きだ。己の技術の向上を実感するのも、勝負の緊張感も。
 自ら進んで兵士たちの訓練に混ざり、日々鍛錬を重ねた甲斐あってか、王宮の兵士長であるハウゼンを始めとする王の警護や一隊の総大将を任せられている熟練の将軍や精鋭を別にすれば、剣でアレムに敵う者は城内にいない。
 しかし、気心知れた王宮戦士が相手では、無意識に手心を加えていたかもしれない。そしてそれは相手も同じだろう。
「魔物との戦いは命のやり取りです。そこをお忘れなきよう」
 人間を捕食対象として、魔物は全力で襲い掛かってくる。当然、応戦は命懸けでしなければならない。今までとは全く性質の異なる戦いが待っていると、師はそう言っているのだ。
「わかった。覚えておく」
 命懸けの戦い。馴染みの無い単語に、剣の鞘を革のベルトに固定し、袈裟懸けに装着する手がかすかに震えた。それが不安か期待か、本人にもわからなかった。
 ハウゼンが小さく苦笑交じりの溜息をつく。
「いつでも帰りをお待ちしています。貴方が王子でも、そうでなくとも。貴方が帰るべき場所は、ここなのですから」
 アレムが顔を上げると、厳しい表情の忠臣たちがいる。幼い頃からずっと傍で自分たち親子を支えてくれた者たち。
「決して、命を粗末にしてはなりません。それが王と我らの望みです」
「ああ、覚えておくよ……本当に。約束する」
 静かに言い聞かせるハウゼンに、アレムは神妙な顔をして答えた。

 照れ臭いので見送りはいいと言うアレムに改めて旅の無事を願い、二人の忠臣は王子の部屋を出、硬い靴音をまばらに響かせながら並んで廊下を歩く。既に夕焼けは夜の闇に変わり出し、壁に取り付けられたランプの明かりが目立ち始めていた。
 自分たちが出来る事は、息子を手放した王を支え、一人の若者の武運を祈るのみ。
「顔色が優れませぬぞ、ハウゼン」
「フォーエル殿こそ」
 今日を限りに、手の掛かる見慣れた元気な姿が消えるのは寂しい事ではあったが、万が一の事態に対する不安は驚くほど少なかった。あの王子が約束すると言うのならば、それは本当なのだろう。昔から王子の言動には他者を納得させる不思議な説得力があった。
 だからこそ、違った一抹の不安が脳裏をよぎる。
「のう、ハウゼン」
 フォーゼルが独り言のように、ぽつりと呟く。
「陛下も亡き先代様も、ご立派なお方。お仕え出来る事は私の生涯の誇り……しかし、たまにあの方たちを見ていて苦しくなるのです。陛下や王子が、良き主であればあるほど」
 英雄の子孫、勇者の王国――その肩書きに恥じない能力と徳をもって、民草の尊敬と感嘆、畏怖を一身に浴びる彼らの主たち。
 国主や勇者として、完璧すぎる。勇敢なるローレシアだけではない。慈悲深きサマルトリア、気高きムーンブルク。式典や訪問で面会した他国の王族たちも、現世に遣わされた聖者のような立ち振る舞いが実に板についていた。
 他者に悟られぬよう陰で努力して務めているのならば、その気が休まる事はあるのだろうかと胸が痛む。老婆心ながら。
 そうでなくて代々生まれ持った性質だとしたら、それこそ畏怖と尊敬に値するものなのだろう。しかし。
「フォーエル殿……私も、わかる気が致します」
 ハウゼンも答える。同情や嫌悪などあるわけがなく、敬意や忠誠は変わらない。それでも、
「つい下らないことを考えてしまいます。まるで、神にそう造られたようだと」

 アレムは部屋――三階――の窓枠に足を掛け、恐れを知らぬ動作で思い切りよく蹴り、宙に飛び出すと、目の前にある木の枝を掴んで飛び移る。
 大きな木の幹が揺れ枝葉が軋み、若葉が数枚、はらはらと地面に落ちた。
 ふぅ、と小さく吐息を零すその表情に、焦りや恐怖は微塵も無い。慣れた動作で木の幹を伝い下り、手頃な高さまで下りたところで跳び降りる。
 見慣れた庭は夕闇に翳る。庭師や女官の勤務時間はとうに過ぎているが、念のためきょろきょろと辺りを見回して人がいないことを確認すると、アレムは素早く裏門を抜けて外に飛び出した。
 肩掛け鞄に最低限の荷物だけ持って、これでは夜逃げでもしているみたいだ。
 奇妙な高揚感にアレムは噴出しそうになるが、誰も見ていないとは言え一人で笑うのも不気味なので、口元を固く閉ざす。
 こうして人目を盗んで裏門を出たのは初めてではない。むしろ子供の頃からずっとやってきたことだ。にもかかわらず、しょっちゅう見ているはずの民家や草原、土を固めた道などの風景が、夜の闇の分を差し引いても広大かつ新鮮に目に映る。
 ――よし、行こう!
 アレムは、高揚し緊張する全身を少しでも落ち着かせるために、一つ深呼吸してから、大きく一歩を踏み出した。
 そして長い旅が、始まる。
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